こんにちは、エンパワlabo 氣功師の有岐です。
いかがお過ごしでしょうか?
今回は前回の続編。
覚醒には大きく分けて二つの側面があるという事。
ひとつは「意識の変容」。もうひとつは「魂の成熟」。
前回は「意識の変容」についての話でした。
▶覚醒は“能力”や“奇跡”「特別な人だけが得る、特別な状態」? | 氣功師 有岐の「本当の覚醒の法則」
今回はその続編、「魂の成熟」です。
「魂」や「精神」という言葉。
あなたはどのように捉えていますか?
ちょっと想像してみて下さい。
文字や言葉がなかった時代、私たち「人」は大きな自然に畏敬の念を抱いていました。私たちの命を生かすも殺すもそれ次第、そんな大きな存在だったからです。
生き物はまず本能的に「快(心地よさ)」と「不快(苛立ち)」、この2つによって動かされています。
人は、心地よいものへ近づき、痛みや不安を避けるのです。
それが生き延びるための知恵であり、進化の源だったからです。
私たちには「こうしたい」「こうであって欲しい」という、“欲望”。
そして「こうならないで欲しい」という“恐れ”があります。
だから「快・不快」の感覚で生き物は突き動かされてしまうのです。
人間と動物の違いは、ここにあります。
人だけが脳が進化する事で、「分別」を持つようになったからです。
「言葉」。
私は、それは聖書の「智慧の実」だと思います。
言葉によって、物事に対して「意味づけ」が生まれるようになったからです。
すると、世界は「善と悪」、「正しさと誤り」、「上と下」という、二極が人の心を支配するようになりました。
さらに、「言葉」によって、私たちは全体である感覚から切り離されて、「個」を認識するようになりました。
それはつまり、「私」と「あなた」という境界ができたという事です。
言葉は「自分」と「他者」を分け、比較や評価が始まります。
この境界が、人間を人間たらしめる一方で、葛藤の源ともなるのです。
「私」と「あなた」の関係で、私たちはどうしても「良い悪い」「善と悪」といった「二極のものさし」を元来持っています。
そして、その狭間で揺れ動きながら生きているのです。
私たちの心が持つ「恐れや不安」は、まさにこの二極の間で
「間違えたくない」「拒まれたくない」と思う心から起こるものです。
そして、その「怖れ」に突き動かされながら、私たちは「選択」を繰り返します。
あなたの出来事を思い浮かべて下さい。
例えば、家族や会社のような「濃い人間関係」の中で、良かれと思って出した、そのひと言。
そこに火がついてしまって、火消しをしたいと思い放った、その「言葉」で、
逆に自分が大火傷を負ってしまった事はないでしょうか?
相手を心配して想うばかりに、その「間違った火消し」の選択を、何度も繰り返していることに気づいているはずです。
「これが正しいとわかって欲しい。説明したい」という思いがあるんですよね。
でも、残念ながら、人はそれぞれ持っている「ものさし」が違うので、「センチメートル」のものさしで「フィート」計る事はできないのです。
「二極性」こそが私たちの意識を育て、そして同時に人間関係で葛藤を生み出すものです。
その二極の間で揺れる時、必ず心は「怖れや弱さ」を感じています。
でも――
この弱さこそが人間らしさだといえます。
そして、その体験が魂の成長に必要な「お試し」なのです。
魂ゲームをクリアする、まさに必要な門(ステージ)だと思うんです。
二極を行き来することで、私たちは「自分の弱さ」を知ります。
「二極と葛藤」は避けたり、追い払うものではないのです。
それは、魂が決めてきているので、「来るものは、来る」んです。
じゃあ、私たちはそんな渦の中でどうしたらいいのでしょうか?
動物と違って人間は、自分の「快・不快」、そういう心地よさや不快感を「あ、私は今イライラしている」「悲しんでいる」と認識する事ができますよね。
外側の刺激に反応して、すぐに喜怒哀楽が湧き上がってきます――
それに反応しているだけじゃあ、動物と同じです。
快・不快という二極は「葛藤の源」なんです。
自分に中にある「正しさ」や「認識の物差し」がわからないままでは、
葛藤の波の中で「成熟した選択」はできないですよね。
そして私たちの人生が歩く「設計図」は、それがクリアするまで、同じような「お試し」が問題として現れてくることになっています。
魂の成長の「気づきのお試し」は、時には他者が「鏡」として現れ、
過去の自分が「鏡」になったりします。
その「鏡」を受け止めた時、人生の変化が起こります。
体験したくなかった、避けたいと思ってきた、
そんなことがあったら、嫌だ、怖い・・・
そう思ってきたことを、ただ「じーっと」受け止めた時、
私たちは実は「避けようのないものが襲ってくる」と思っていた道が、
実は魂の成熟のために用意された旅路であるとだんだんと気づいてくるんです。
恐れを超えた先にあるのは、分離を超えた「統合」。
今、「右だ左だ」、「あの人はこうだ、この人はこうだ」、「あの国はこうだ」
私たちは、「ああだこうだ」と物事に「レッテル」を貼ってそれを頭で認識しようとしていますよね。
何もラベルがないボトルに、「コーラ」とか、「お茶」とか、ラベルを張って、
それが何なのかを認識しようとしているんですね。
でも、そもそもボトルはただのボトルです。
中に入っている物がちょっと違うだけで、「飲み物」です。
ただの布切れに、「布巾(ふきん)」という名前と「雑巾」という名前を付けるとどうですか?
認識が全く違いますよね。
それくらい私たちは、「レッテル」で物事を理解しようとしていて、
ボトルとか布といった、本当の「本質」が見えていないんです。
目の前にいる「鏡」の存在である、他者に貼ったレッテル。
自分自身に貼った、「親、妻・夫、役職、性別」の「役割のレッテル」。
そんなものは、脳が認識するために貼ったレッテルなんだ、そうわかったら、
「布巾」や「雑巾」のレッテルの奥にある・・・
心が感じている「怖さ」をただ、言葉にせずに「ぐ~」と感じ切ってみるんです。
それは、苦しいんです。
怖いんです。
でもある日、突然、そんな出来事は起こるんです。
ただ、突然防ぎようもなく、ただ起こります。
突然の別れ。
愛する人の死。
信じていた人の裏切り。
私たちは、「何かが起こると恐ろしい」そう思っています。
そんな事が起こらないように、起こらないようにと
何重にも予防線を張って、準備しているんですよね。
生きるということの、「恐怖」。
避けよう、避けようとすればするほど、その「悪魔」は大きくなるんです。
私たちは、間違った反対の事を教え込まれてきました。
「こうしないと怒られるよ」「こうしないと間違うよ」
教育で、間違わないように、失敗しないように、そこにいつも注力するように仕込まれてきました。
こんな事がありました。
学生の頃、私は海外にいて大きな間違いをした時、私はそれを隠そうとしました。
怒られることが怖かったからです。
でも、見つかった時にこう教えられました。
「間違いは人だからあって当たり前。自分がした失敗の責任を受け入れて、
間違えたと言える心の力が評価されるんだよ。」
「じゃあ、それからどうするのか。それだけだよ。」って。
私たちが大事にしているのは、そこなんだ。
そう言われたんです。
その体験から私は、失敗をした時に「告白」するように「意識」しています。
そんなん、それは怖いですよ、今でも。
「ああなったらどうしよう」「こんなことになったら、今までのものが全てなくなるかも・・・」そんな思いに心は一杯になります。
自分がもう立っていられなくなるんじゃないか、そんな恐怖で心が一杯になります。
人間やから、死ぬまでそんな感覚がなくなる事はないと思います。
でも、そこで――
間違いを認めるか、認めないかの「選択」は、自分にあります。
間違ってもええやない。
自分の「イメージ」「プライド」は、誰に対して持ってるものか?
もしそれが「他者」に対してなら、そこに自分の軸はありませんよね。
ちょっとSNSで騒がれたら、他者なんて勝手にそれまでのイメージを
一瞬で変えますもんね。
自分の「セルフイメージ」「自尊心」は誰に対して持っているんか?
そんなことを思った時に、私の答えは「自分」でした。
死ぬときに持っていけるのは、自分の魂だけ。
外側を皆だませても、自分だけはだませない。
苦しさや悲しみ、怖さの渦に巻き込まれる「出来事」が起こったら、
「ああしたら」「こうしたら・・・」
そんな小細工はもうやめましょう。
あの人が、この人が・・・それもあるかもしれませんが、
一旦、ほっときましょう。
自分の感じている「今」、
苦しい・・・怖い・・・辛い・・・・
ただその中で、「んー」と心を踏ん張って感情を感じるままにしておくんです。
YouTube見たり、映画見たり、音楽聞いたり、SNSしたり・・・
心を紛らわしたいんです。
でもしない。
すると、どうなると思いますか?
恐怖を抱きしめると、自分が恐怖になると思いますか?
辛さを抱きしめると、辛さそのものになると思いますか?
いいえ、違うんです。
恐怖や怖さを感じ切ると、
「止まる」んです。
誰かと別れた時、自分の元から誰かが永遠に去った時、
自分ではコントロールができなくなった時、
全てが、自分の存在の意味もなくなって、恐怖と悲しみが突然襲ってきた時、
泣いて泣いて・・・また、思い出して泣いて・・・
その思いを抱ききった時、どうなりましたか?
「止まる」んです。
葛藤の中で、自分を知って、理解し、そして許し、
少しずつ少しずつ受け入れる。
自分を「赦す」より難しいのが、「他者を赦す」ことです。
その葛藤の中で、魂の器がだんだんと大きく深くなってきて、自然と自分が握りしめていた正しさへのこだわりが消えていきます。
感じ切る体験をすると、その認識自体がどうでもよくなってくるんです。
そこには、「赦し・慈しみ」――全ての人間が持つ「魂の中の母性」だと私は感じています。
言葉がもたらした分離を越え、再び「一つ」へと還る。
その過程こそが人間の魂の成熟のストーリーだと思うんです。
本日も最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
氣功師の有岐でした。
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