こんにちは、エンパワラボ、氣功師の有岐です。
「誰にもわかってもらえない。
どれだけ叫んでも、声が届かない気がする。」
そんな日々を、どれくらい越えてきましたか?
「もう限界かもしれない――そう思っても、誰にも助けを求められずに、ただ部屋の隅で泣くしかなかった。」
『平気なふり』に慣れすぎて、心の声が届かない苦しみを一人で抱えている。
「どれだけ頑張っても、どこか満たされなかった。
誰かに褒められても、認められても、心の奥はぽっかり空いたまま。」
愛されたかった過去の自分、”あの頃のあなた”。
なぜこんなに苦しいのかさえ、うまく言葉にならない。
でもそれは、あなたが弱いからではありません。。
むしろ、誰にも見せないまま、一人で抱え続けてきた“強さ”の証ではないでしょうか。
閉ざされた心の扉を、ほんの少しでも開きたいと願ってるあなたへ、今日も届けたい話があります。
先日生徒さんから、「エゴと自己愛の関係とはなんでしょうか?」と質問がありました。
エゴ・偏った自己愛・他人軸・・・改めてそう言われると言葉のイメージだけで、現実の自分の人生に「どうやって」活かすのかまで考えた事がないかもしれません。
でもこの正体を見破る事で、自分自身との付き合い方や人間関係が大きく変わり、人生の激変がスタートします。
あなたはその準備が出来ていますか?
■エゴが築く、『もろい仮面の城』
まず、「エゴとは何か?」ですよね。
エゴと聞くと「自分勝手」な性格を指す言葉だとイメージしませんか?
実は「エゴ」とは自分勝手という意味ではなく、
「こうでなければならない自分像」に執着し、それを守る心のクセです。
心の奥で自分をこんな風に思っていませんか?
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「私は劣っている/優れている」
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「もっと評価されたい」
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「私は特別だ/無価値だ」
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「私はちゃんとした人でいないと」
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「私は元々はダメな人間だから、頑張らなきゃ」
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「私はいつも犠牲になってしまう」
これらはすべて、自分の中で無意識過去の経験の中で作り上げた「セルフイメージ(自己像)」です。
現代は他者との比較と競争で人の価値を「値段」にように「数値化」する社会。
学歴、年齢、性別、地位・・・
無意識のうちに私達は「劣等感」を常に感じていて、自分の価値を外側に証明する事を強制され、生きること自体が苦しく感じる社会で生きています。
そしてそんな社会構造が、もうすでに隙間がないほどに完成しているのです。
そんな中で、自分達の心の苦しみの「構造」を知らず、無知なまま、外側に常に心が反応してしまう『もろい仮面の城』の中で、人が生きていくには限界があると感じていませんか?
エゴ、これは仏教で言えば、「我執(がしゅう)」に近いものです。
「これが“私”だ」とぎゅっと固く握りしめている感覚です。
そして、このエゴこそがこころの苦しみを生み出す根源なのです。
エゴの働きによって、心が苦しくなる原因を2つ挙げてみましょう。
1つは、“自分”に関する思考やイメージ
二つ目は、それを守ろうとする防衛反応
つまり、エゴとは「自己イメージ」や「自我意識」、そしてそれを「守ろうとする心の反応」により起こることなんです。
10代20代30代・・そして70代80代・・
本当は流動的で、変化し続けるはずの“わたし”を、
「こうでなくてはならない??」と縛りつけてしまうと、心が固くなり、どんどん変化する外側との関係に、当然ズレが生まれていくのです。
■なぜエゴは攻撃的・防御的になるのか?
「エゴは何か?」
そういった知識は豊富に理解していても、実際には疲弊し、たびたび襲う自己否定のループの檻から出る方法がわからないと感じていませんか?
そうですよね。頭の中でああだこうだと理解している知識じゃなく、今回は日常の中で実践的に「意識」して具体的に使える話が聞きたいですよね。
まず、私達人間の目や耳、鼻といった感覚器官は、どこ向きについていますか?
そう、外側に向いてついていますよね。
だから人間は目は外を見、耳は音を受け取り、鼻は美醜の匂いを感じるというように、自動的に外側に反応するように「身体」が創られているのです。
だからこそ、「外的価値」で自分を測るクセが芯まで染みついているーー
そしてこの資本社会=ビジネスの構造の中で、テレビやネット、SNSは「そうでないあなた」の劣等感を刺激し、つかの間の安堵を提供し、また不安を煽る・・・この繰り返しの仕組みの罠に気づかずにいきているのです。
「自分には価値があるのか?」という問いを私達は心の奥で常に自問しています。
そしてその質問の根底には、誰もが心の奥に抱えているものがあるのです。
それこそが「存在不安」です。
その不安を、外からの評価や成果で埋めようとすればするほど、また、証明しようとすればするほど、新たな不安が現れる・・・そして、それを証明する事で初めて「あなたの価値」を認めてやろう・・・。
そんなことが「前提条件」になっているのが、今の私達の社会構造なのです。
人間関係であなたは他者から攻撃されていると感じていませんか?
また、そんな恐怖から自分を他者から守ろうと、殻から出られずにいませんか?
では、ここで「なぜエゴは攻撃的・防御的になるのか?」についてお話しますね。
人間は自己の仮面が壊れそうになると、無意識に反応します。
それは、自分のエゴが「自分を守らないと!」と過剰に警戒モードに入るのです。
それは、相手に問題があるのではなく、自分の内側が激しく揺さぶられている状態。人類に共通した、その「揺さぶり」とは
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傷つけられるかもしれないという「怖れ」
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自分が劣っているという「恥」
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ひとりになるかもしれないという「孤独感」
この「怖れ」「恥」「孤独感」の3つです。
これらを見たくない・触れたくない時、エゴは「反射的に防御システムを起動」させます。
そして、攻撃や否定、冷笑、無視などの形で「自分を守ろう」とするのです。
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あなたが怖いと感じている、その「他者」も実はあなたと同じ「エゴ」によって自分を守ろうとしていたのです。
そして、あなた自身も他者に対して「脆い自己像」や「見せたくない感情」を守るために防御していたのです。
ここでもう少し、具体例を出してみますね。
【例①】正論でマウントを取る人の裏側にある不安
ある職場のミーティング。
みんなが自由に意見を出す中で、中間管理職の男性Aさんが、他の人のアイデアに対してこう言いました。
「それって根拠が薄くないですか?それじゃクライアントに通用しないですよ。」
場が一瞬静まり返る。
他の人は委縮し、Aさんの発言に従う空気が生まれた。
でも本当は、Aさんは前回の商談でミスをして、上司に叱られたばかりだったのです。
「次こそは失敗できない」「バカにされたくない」――その「恐れ」が、Aさんに“完璧さ”を装わせた。
その結果、「正しさ」という鎧をまとい、他人のアイデアを否定することで、
「自分の価値を守ろう」としたのです。
この正論や証拠でマウントを取ったり、取られたりする事が今の社会では多いと思います。もし、あなたがこのAさんに正論で論破された相手側だとしたら、どう思いますか?
もしかしたら、その正論を覆す証拠を見つけようとするかもしれないし、またはAさんの支配的な性格を揶揄するかもしれません。そして、論点そのものから全く離れ、Aさんの人格を否定するかもしれません。
私達の人間関係の摩擦は、そんな表面的なマウントの取り合いで起こります。
でも、もしAさんがあなた自身だったとしたらどうですか?
前の仕事でミスをした事で、「バカにされた」「価値がないと思われた」、そして「仕事を失ってしまったら、生きていけない」そういった不安感と焦燥感がマウントを取る要因だったと理解する事ができるのではないでしょうか?
次回、誰かがあなたにマウントを取ってきたと感じた時、相手の心の底にあるものを観察してみて下さい。そこにはきっと、怖れからでた何かがあるはずです。
【例②】自分を大きく見せるために他人をけなす人
あるSNSで、男性Cさんが人気のある投稿に対して、こうコメントする。
「なんか薄っぺらいですねw」
「フォロワー多いけど、中身ない人って感じ笑」
その投稿主に、無意識に実は嫉妬していたCさん。
でもその下には、「自分には何も誇れるものがない」「認めてもらえない自分には価値がない」という深い無力感と自信のなさを持っていたのです。
そしてその自己が創った自己イメージを見たくなくて、エゴが「攻撃」によって相手を下げ、自分を上げようとするのです。
それは、比較でしか自分の「価値」が測れない構造。
人は成長過程で、「◯◯ができる子はえらい」「XXさんよりすごいね」といった比較による評価を受けながらアイデンティティを築きます。
この過程で、「誰かより優れている=自分には価値がある」という条件つきの自己価値観が育ってしまうと、
他人の成功 → 自分の劣等感を刺激
他人の失敗 → 自分の安心・優越感
そういった「外との比較」による自尊心の防衛反応が強くなるのです。
自己像に執着があると、他者の優秀さや成功は、自分のアイデンティティを脅かす敵になってしまうのです。
するとエゴは自動的に、防御に走ります??
その方法が・・・
相手のミスを指摘して「下」に見せる
皮肉や評価で相手を下げ、相対的に「自分は上」と感じる
相手の成功を「運が良かっただけ」と片付ける
これが他人を下げて自分を上げる行動の無意識の仕組みです。
でもこの深層には、「価値がない私になってしまう恐怖」があるからなんです。
「私はこのままでは価値がないのではないか・・・?」
この恐れに直面するのが怖いから、外の世界に投影し、他者を操作・攻撃・否定することで、自分を守ろうとする。
実は、この行為は自分自身との分離状態からくる痛みの反応なんです。
そしてもう1つ、ここで「カバードアグレッション(隠れた攻撃性)」を用いて他人をけなす人の例を出してみますね。
表面はにこやか、でもじわじわ傷つけるーーこれがカバードアグレッションです。
そしてカバードアグレッションを受けたとき、
「なんか傷ついたけど、何が起きたかわからない…」という状態になりやすいのです。
【例③】自分の存在価値を証明するために他人をけなす人
職場でのこと。
新しく入ったばかりのDさん(20代女性)は、素直で一生懸命。
ある日、先輩のEさん(30代女性)はにこやかにこう言った。
「Dさんって、ほんと一生懸命でかわいいね。
なんか“完璧主義なところ”とか、昔の私を見てるみたい(笑)」
Dさんは一瞬、褒められたと思って笑ったけど――
心にひっかかった。「完璧主義」と「昔の私」って…何か意味ある?
別の日。Dさんが会議で意見を出すと、Eさんは笑顔でこう言った。
「すごいね、そういう大胆な発想ができるのって若さだよね。
私はちょっと怖くて言えないかも(笑)」
その場では笑いが起きたが、Dさんはまたモヤモヤを感じた。
まるで「浅はか」「怖いもの知らず」と言われたような気がした。
Eさんの発言には、直接的な攻撃はない。
でも、「褒めてる風」を「装い」ながら、相手の未熟さを印象づけ、立場を上にするような発言が続く。
そしてDさんは徐々に「私はどこかおかしいのかも…」と自己不信になっていった。
カバードアグレッションとは、
攻撃性をストレートに出さず、言葉や態度の裏に隠して行う攻撃のこと。
たとえば:
・皮肉や婉曲表現(例:「大胆だね=考えなしだね」)
・“褒めてるふう”の見下し
・群れの中で対象を笑い者にするような誘導
これは、自分が優位でいたいエゴの現れなんです。
しかし、表面上は「悪意がない」ように見えるため、周囲も気づきにくく、ターゲットは孤立しやすいのです。
皆さんは誰でもこの「隠れた攻撃」を受けた事があるかと思います。
自己不信を知らないうちに刷り込まれ、また実際には表面的には攻撃されていないので、誰にも気づいてもらえない。
だからこそ、心や病んでしまった時、その原因が自分でもぼんやりとしてわからず、説明しようがない。。。
会社を休み、眠るしかない。
その場所から離れて、一旦心が落ち着いても、また復帰すると同じ事が起こる。
どんな経験はないでしょうか?
この状態から抜け出る方法があります。
それは、「自分」という目線からEさんの中にある「エゴ」を観る視点に変えてみる事です。
「Eさんはなぜそのような行動をしたのか?」
そこには必ず「怖れ」からでたエゴがあるはずです。
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自分の存在価値を脅かされたくない(新人が注目されて不安)
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若さや純粋さに嫉妬している
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自分がもう“輝いていない”という恐れを感じている
その不安や劣等感を素直に感じることができず、
「攻撃という形で外に出して、自分を守っている」のです。
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カバードアグレッションを受けたとき、
「なんか傷ついたけど、何が起きたかわからない…」という状態になりやすいです。
そんなときは、
「私が悪いから」と自己否定するのではなく、
✅ 「この発言の意図は?」
✅ 「本当にこれは善意だったのか?」
と冷静に“行動の裏”を見る視点を持つこと。
すると相手は「エゴ」の反応で攻撃しているのだとわかります。
不思議に事に、それを日常そういった時に、実際に繰り返していくうちに「相手の問題を自分の問題」にすり替えていたことに気づき、
「あなたの問題はあなたが解決してくださいね」と、
自分と相手の間に境界線を引く事が自然と出来るようになってきます。
本日はここまで。
今日は「エゴとは何か?」
「なぜエゴは攻撃的・防御的になるのか?」についてお話させて頂きました。
次回は・・・
「エゴ=無意識の中のあなたを裁く裁判官」
「この罠から抜け出すヒント・真の自己愛」
「エゴを見る事(自己受容や統合)から逃げる心の理由」
そんなテーマです。
お楽しみに。
今日も最後まで読んで頂き、有難うございました。
氣功師の有岐でした。
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